神の愛キリスト教会のブログ

聖書から人生に役立つお話

Never Give Up

 

人にはどうしょうもない時。限界を感じる時が必ずあります。

イエス・キリストは、無実の罪で鞭打たれ、十字架にはりつけられました。

友だった弟子達は逃げ、イエス・キリストは孤独の中で死にました。この歴史的な事実を知らない人はいません。

神様は、このイエス・キリストを3日後に復活させ、多くの目撃者達の前に現れ、そして天に引き上げられました。このイエス・キリストの御業によって私達は、罪を赦される救いを得ました。

この3日後の復活。

これが、神の偉大な力です。

死んだ人間の復活!

私達も、目標に向って走り出すと、敵が大勢タックルを仕掛けてきます。

それが神の栄光のためや隣人のためになることならば、なおさら激しい攻撃を仕掛けて来ます。

しかし、最後まで神様を信頼し、聖書のみことばに立ち、諦めずに祈り続けるならば、最後の最後に大ドンデン返しが起こるのです。

それは、イエス・キリストが十字架で息を引き取った最後の瞬間に勝利したように、神様はあなたの手を取って引き上げるのイエス・キリストを信じて救いの体験を実感して下さい!


‭‭コリント人への手紙Ⅱ 1:6-7 JCB

 私たちが大きな苦しみに会うのも、あなたがたが神の慰めと救いを受けるためです。現に神様は、苦しんでいる私たちを慰めてくださいました。それは、あなたがたのためでもあるのです。つまり、あなたがたが私たちと同じような苦しい境遇に立たされた時、神の慰めがどれほどやさしさに満ちたものであるかを知ることができるのです。神様は必ず、苦しみに耐え抜く力を与えてくださいます。

 

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アドナイ・イエル


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私たちの人生は悲劇と祝福の繰り返しです。良い事ばかりであればいいのすが、そういうわけにはいきません。逆に、どうしてこんなに不幸が続くのだろうと思うようなことがあっても、その中にも必ず良いことがあります。人生は悲しみと喜びの繰り返しですが、その時も神によって定められているのです。

すべての営みに時がある。人間の力には限界があります。

それをなんとか解決しようと、必死にあがく時、苦しみか生まれます。

不平や不満の毎日は辛いものです。

神様を信頼して、何事も神様に感謝と賛美を捧げる時。平安があります。


アドナイ・イエルというヘブライ語があります。

その意味は、「神は用意してくださる」です。

神様に信頼しましょう。

イエス・キリストを、あなたの主として心に迎えて下さい。

神様は、イエス・キリストを通して、あなたのために最善の道を備えられます。


‭‭伝道者の書 3:1-13 リビングバイブル

何事にも定まった時があります。 生まれる時、死ぬ時、植える時、収穫の時、 殺す時、病気が治る時、壊す時、やり直す時、 泣く時、笑う時、悲しむ時、踊る時、 石をばらまく時、石をかき集める時、 抱きしめる時、抱きしめない時、 何かを見つける時、物を失う時、 大切にしまっておく時、遠くに投げ捨てる時、 引き裂く時、修理する時、黙っている時、口を開く時、 愛する時、憎む時、戦う時、和解する時。 一生懸命働いたところで、何の益になるでしょう。 私はこのことを、神が人間に与えたさまざまの仕事と関連して考えてみました。 あらゆることには、ふさわしい時というものがあります。また神は、人間の心に永遠を思う思いを与えました。しかし、人は神の働きの全体を見ることができないのです。 私の結論はこうです。

第一に、できるだけ幸福に過ごし、人生を楽しむ以上にすばらしいことはないということです。 

第二に、人は食べたり飲んだりして自分の労苦の実を楽しみ、味わうべきだということです。それは神からの贈り物だからです。

 

司式者のお仕事


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昨日は、川崎でお葬儀の司式のお仕事でした。

キリスト教のお葬儀の場合、通っている教会でなさるクリスチャンの方が多いと思われがちですが、私に依頼がある場合は、かつて教会に通っていたが、転勤や何らかのご事情で教会に行けてない人達。生前教会に通って求道中にお亡くなりになった方などなど…。色々なご事情を抱えた方からのご依頼ばかりです。

ご依頼を受けて葬儀社さんとの打ち合わせや喪主の方とのインタビュー。

故人の生前辿った人生などをお聞きして、式文やお祈りを毎回考える。

パターン化はできません。

当然、ノンクリスチャンの参列者が多いので、そういう方々にもイエス・キリストの愛をお伝えしなければならない。故人がどうやってイエス・キリストと出会い。(そこには神様のお導きという祝福がある)神様を信じて静かな晩年を過ごし、召天されて永遠の命を与えられるという恵みのお約束。人間の死は終わりではなく再びお会いする事ができる希望をメッセージでお伝えし、ご遺族に寄り添い慰めと励ましを与えるのです。

司式は、祈りに始まり祈りに終る。お葬儀のご依頼からお葬儀が終わるまで祈りと断食によって当日を迎えます。

コロナ禍以来、参列者の人数も減少し、お葬儀の規模も縮小傾向にあります。しかし、他は節約してもお葬儀の司式だけはちゃんとした式を行い故人を弔いたいというご遺族のあたたかいお気持ちがあります。

キリスト教司式は、そんなわけで大量生産化はできません。

完成するまでに時間も手間もかかります。

結婚式の場合は、1日に何組もできます。お葬儀はそうは行きません。

以前は、ご依頼から4日後のお葬儀が多かったのですが、最近はご遺体の保管方法がアップして一週間後という時間的な余裕があるケースが多く、喪主さんとのインタビューや質問にお答えする機会も増えました。とても良い傾向です。

当日は祈っていると神様の霊(聖霊)に満たされ、故人に会ったこともないのに、その生き様と同化するので、故人と共に生きてきた感覚になり、毎回司式を執り行いながらお別れにご遺族や参列者と同じく涙してしまいます。

涙する司式者も珍しいですよね。


キリスト教マメ知識

神の御許に行くことについて、カトリックでは「昇天」を、プロテスタントでは「召天」を使います。 それぞれ、「故人が天に昇る=昇天」、「神によって天に召される=召天」という意味を重んじているためです。


‭‭ヨハネによる福音書 3:16 口語訳‬‬

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

Way of God


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あなたは、無意味にこの地上に存在しているのではありません。

『 わたしがあなたを造作った。』

天と地の創造主、父なる神様がそう言おっしゃるのです。


神様である創造主がちゃんとした目的を持って、あなたを意図的に造られたのです。


あなたは、神様に選ばれて存在なのです。

神様の最高傑作なのです。


神様が持っている素晴らしいご計画は、あなたの生きる上での目的やあなたが歩む人生の意味に大きく関係しています。


人間に限ったことではありません。

全能の神様、創り主が、素晴らしい目的を持って、全てを造られました。


神様があなたのために、あなたの人生の歩む道をお造りになるのです。


‭‭詩篇‬ ‭128:1‬ ‭口語訳‬‬

すべて主(神)をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。


キリスト教マメ知識

神を畏れる(おそれる)とは、人知を超えた偉大な存在(人間の知識、知恵力の及ばない存在)を認めることである。 

神を畏れるとは、自分(人間)が今存在し生きているのは自分(人間)の力だけに依らないことを認めることである。

Way of God

あなたは、無意味にこの地上に存在しているのではありません。

『 わたしがあなたを造作った。』

天と地の創造主、父なる神様がそう言おっしゃるのです。


神様である創造主がちゃんとした目的を持って、あなたを意図的に造られたのです。


あなたは、神様に選ばれて存在なのです。

神様の最高傑作なのです。


神様が持っている素晴らしいご計画は、あなたの生きる上での目的やあなたが歩む人生の意味に大きく関係しています。


人間に限ったことではありません。

全能の神様、創り主が、素晴らしい目的を持って、全てを造られました。


神様があなたのために、あなたの人生の歩む道をお造りになるのです。


‭‭詩篇‬ ‭128:1‬ ‭口語訳‬‬

すべて主(神)をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。


キリスト教マメ知識

神を畏れる(おそれる)とは、人知を超えた偉大な存在(人間の知識、知恵力の及ばない存在)を認めることである。 

神を畏れるとは、自分(人間)が今存在し生きているのは自分(人間)の力だけに依らないことを認めることである。

続新選組クリスチャン


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篠原 泰之進(しのはら たいのしん)

流派は、柔術/良移心倒流,剣術/要心流,槍術/宝蔵院流の達人。

穏やか、さっぱりした性格、明るく無邪気だったようだ。


元治元年(1864年)10月、新選組加盟を前提に上京。しばらく遅れて入隊。


慶応3年(1867年)3月、御陵衛士結成に伴って新選組を離脱。この頃、秦河内と称する。油小路事件後は薩摩藩邸に匿われ、12月18日、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。

戊辰戦争では赤報隊に加わって投獄された後、釈放され、軍曹を拝命して会津戦争北越戦争で戦功を上げた。


維新後は秦林親と改名。戦功により永世士族の身分、恩賞金250両、終身8人扶持を賜る。明治2年(1869年)に弾正台少巡察、明治5年(1872年)に大蔵省造幣使の監察役。のちに実業家に転身したものの、成功はしなかった。


晩年はクリスチャンとなり、「秦林親日記」を記し、また史談会に出席して証言するなど、当時の記録を残した。


明治44年(1911年)に東京市青山にて84歳で死去。青山霊園に墓がある。


人生の荒波、歴史の荒波を乗り越えた侍は、晩年イエス・キリストに心の平安を見出したのだろう。

彼がどうやってキリスト教と出会ったのかは不明だが、篠原の遺した手帳から、英語を学んでいたとする説がある。

多分、アメリカの宣教師との出会いがあったのではないだろうか。


‭‭シラ‬ ‭38:20‬ ‭新共同訳‬‬

悲しみに心を奪われてはならない。 人生の終わりであったとあきらめ、 悲しみを払いのけよ。

恐れからの解放

 


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限界を超えて毎日を送るように追い込んでいるものは何でしょう?


それは恐れです。私達は何かを逃してしまうことが怖いのです。遅れを取ることが怖いのです。


恐れは、仲間はずれになる、遅れをとってはならない。

私たちはカレンダーを予定でいっぱいにして、銀行口座を空にするのです。恐れはひと息のゆとりを奪い取ります。


ですから、疲れ切っている日にもなんとか都合をつけようとします。


私はかつてワーカホリックに長年なっていました。

自分の健康や趣味よりも仕事を一番に優先し、常に働いていないと気が済まない。結局、左目の視力を失いました。


しかし、そのおかげでペーやスピードは落ちましたが、その分無理を控え、余裕のある生活や仕事に取り組むことができるようになりました。

これは災難ではなく、神様のプレゼントです。


聖書でもっとも繰り返されている掟が何かご存知ですか?

 それは恐れてはならないということです。

神は私たちに、恐れに支配されてはならないと語られています。


そして、恐れに打ち勝つための驚くほどシンプルな方法を呈示されています。


明日、私たちの生活にひと息のゆとりを取り戻すために神が(数千年もの間)私たちを招かれている方法。

それは、神様への信頼です。

神様にあなたの明日の全てを委ねましょう。

そこには平安があります。


‭‭詩編‬ ‭23:1‭-‬3‬ ‭新共同訳‬‬

【賛歌。ダビデの詩。】 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。


‭‭イザヤ書‬ ‭41:10‬ ‭新共同訳‬‬

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 たじろぐな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。

 

新選組クリスチャン

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結城無二三(ゆうき むにぞう)

彼は、幕末の頃新撰組に加わって活躍し、敗れて挫折。

ただ、新選組の名簿に名前はなく、専門家からは疑問視されている。しかし、彼の手記には、「私が正式に新撰組に入りましたのは慶応3年のことですが、関係は随分古くからあり、ことに近藤とは京都におりました間、始終別懇にしておりました。私は一体京都では見廻組の厄介になったものですが、見廻組の方は旗本の集まり、新撰組の方は浪人の集まりだったので、当時浪人の私は、自然新撰組の方へばかり行っていたのです」新撰組として京都見廻組の二足のワラジを履いていたのではないか。つまり新撰組は今流のアルバイトではなかったかと思うのです。


維新後は、実業家を試みてこれも挫折、しばらく山の中で隠遁生活を送っていました。

そんな暮らしの三年目。

妻が高熱を出して倒れました。医者の子である無二三は煎じ薬などで手当をしたのですが、一向に良くなりません。

その内に、自分も高熱で苦しくなり身動きがむずかしくなりました。長男は泣き続けるという、どうにもならない状況になってしまいました。

その時、聖書のみことばを思い出しました。

手記に詳しくどの箇所かは書かれていませんが、詩篇と言うことなので、私が勝手に選びました。


‭‭詩編‬ ‭116:4‭-‬6‬ ‭新共同訳‬‬

主の御名をわたしは呼ぶ。 「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 主は憐れみ深く、正義を行われる。 わたしたちの神は情け深い。 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。


無二三は、祈り方など知りませんでしたが、一心に、神にすがりするつもりで祈ったのです。

すると、熱が下がったのです。赤子も泣き止みました。妻も正気になりました。思いがけないことが連続しておきました。無二三は、聖書を仏壇に供えて合掌し、聖書の神にお礼を申し上げました。


全快後、すぐにカナダの宣教師イビーを尋ねました。聖書と聖書の神のことを、正しく、深く知りたいと思ったからです。イビーは、無二三からの話を全部聞くと言いました。

「あなたが私の所へ来たのは奇蹟です。日本に神さまのことを知らせるために、結城無二三を用意されていたのです。あなたが死生の間をくぐったのも、山の中に入ったのも、病気になったのも、みんな神さまの計画です。ですから、あなたは、これからの人生を神さまに捧げなさい。今日からですよ。明日からではありません。私と一緒です。」イビーは言った。


1879年(明治12)彼はキリスト教を伝える人として活躍します。キリスト教の牧師となって生涯を全うしました。


この人も、戊辰戦争で敗れてから挫折の連続の人生。

晩年、イエス・キリストと出会えて平安なる人生を送った一人です。


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